【第3回 横田シェフのHistory】
『お店づくりは、コンクールとおなじですよ。』
横田シェフはそうおっしゃいます。
春日部でオークウッドを開店して3年たった今年、今度はカフェをオープンした横田シェフのお店作りは、コンクールで培ってきたものがベースになっているのだそうです。
『オークウッドをはじめたときから3年後にカフェをオープンしようって決めていて・・・3年後にオープンすることを自分の中で設定して、緻密に計画を立ててやってきたんですよ。お店をオープンするってことはコンクールとおなじで、そこで自分が満足できるものを作り上げるのが一番の目標。自分がやりたいものを表現することが大事なんですよ。』
コンクールでは、時間や材料など、いろいろな制限がたくさんある中で最高の作品を作り上げなければなりません。
また、ただ作るだけではなくて結果を残すことというのが重要です。
『そう、コンクールで勝ってきた人は店をやってもうまく結果を出せる。アメ細工だけがいくらうまくたって結果が出せなきゃだめなんです。“勝負”というものに全精力を注いで結果を出すことっていうのは、すごくコンクールで養われてきたんだと思うよ。それに、“勝負”の中で自分の限界が分かるからね、それを乗り越えてやるっていう部分でも精神的に養われているよね。』
お店を作り上げているパーツのひとつひとつも、横田シェフがコンクールで培ってきたという感性によって、お店に合うかどうか判断をします。
例えばホームセンターの隅っこでほこりをかぶっていたコースターでさえも。
『そう、これはコースターなんだけど、これは絶対うちの店にはまるっていう見極める力がついてるの。コースターをコースターとしてだけ見るのではなくってね・・・』
そのほか、100円ショップで販売されていためん棒に色を塗ってあるものもありました。
少し手を加えるだけでも、全てしっくりと横田シェフの色にそまってしまう ―横田シェフワールドが生まれます。
お菓子にしても、お店を作り上げる細部までも全てがどれをとっても横田シェフワールド
になってしまうのです。
では、横田シェフワールドはどのようにして確立されていったのでしょう。
そもそも、横田シェフのお菓子を始めたきっかけって何だったのでしょうか?
『きっかけって言うのは、お菓子をもともと好きだったわけでもないし、たまたまっていうか・・・ 親が和菓子の職人だったってこともあるけど、別にそれは関係なくって。』
『専門学校も製菓学校は2年制のところしかなくて、2年も学校に通わなくていいやって思っていたし、それで調理師学校に入って。その頃は和菓子は格好悪いって思っていたから、洋菓子がいいなって。 それで、就職活動が始まって。ホテルの募集が早かったから、受けてみたら受かっちゃったんで・・・』―と、意外にもなんとなく入ったパティシエの世界だったようです。
『今は情報がすごく多いけど俺のときはそんな情報なかったし、お菓子屋さんがどんなところで、ホテルがどんなところでっていうこともわからずに、どこのケーキがおいしいとかも全然知らなかったし・・・』
ホテルに入社して
『ただ学校で厳しい職場だということだけをきいてた』と言う横田シェフ。入社してからは・・・
『入社してしばらくは本当につらくて。 ―なにがってタマゴをひたすら早く割る、言われた量の粉をはかる、先輩の食事の準備をする、一日中なにを作っているかわからないまま、あおられあおられ、ひたすらやるだけだった。 この先が見えず、自分にとってこの仕事がいいのかもわからないし、毎日どなられどなられ・・・そこでやっていくものがある程度みえれば耐えることも出来るかも知れないけど、全くみえなかったからさ、はじめはつらかったな〜。』 と、振り返ります。
それでも、横田シェフがお菓子の仕事を続けていけたのは・・・
『学校の先生につらいって言われていたから。こんなもんだとも思えたし、こんなにつらい思いをしているんだから、後はきっといいことしかないだろうと思っていて・・・そしたら、もう少しがんばってみようって思えるようになったんだね。』

その一番つらいときを乗り越えた横田シェフは、少しづつ仕事に楽しみを見つけられるようになってきたんだとか。
『だんだん仕事にも慣れてきて、そうするとただタマゴを割っていたところから先がみえるようになってくるじゃん。で、「こういうものが出来上がるんだ!」っていっては少し食べてみて「うまい!」って感じるようになって、だんだん面白みが見えるようになった―で、半年くらいかな〜。俺はこの世界で行くぞって確信したのは。』
それから、とんとん拍子でいろんな部署の仕事をして、経験をつんでいった横田シェフは入社3年目で、ホテルのフレンチレストランにやってきたフランス人シェフの下ではたくことになり
『フランス人のフランス料理の感覚的なところ、デセールの考え方を見れた』んだそう。
そして、志賀高原にオープンしたプリンスホテルの製菓責任者への抜擢!
『東京ではペーペーだったのに、シェフだからね。約半年間、志賀高原の新しいホテルではいろんなことをやらせてもらいました。それで、東京に戻ってきた頃には、ホテルの仕事が物足りなくなってしまったんですよね。』

そして、フランスの本物のお菓子に触れたいと思い始め、フランスで働くことを決意した横田シェフ。
『それがなかなか決まらなくって。その当時、銀座のレカンというお店にジャンミエさんというシェフが日本に半年に1回、お菓子を教えに来てたんです。そのケーキを食べてみたら、やっぱり今までのケーキとは違うものを感じたんだよね。日本のホテルのケーキっていうのは、本当のフランス菓子とはちょっとずれがあって。それが見たかったんだけど。』
その頃の日本のケーキと言うのは、フランスの原書を取り寄せて、お菓子ってこうやって作るのかな?日本のこの材料のことなのかな?って試しながら作っていたそう。日本で生まれたお菓子。ホテルのお菓子などは特に、こういった流れを強く持っていたのだそう。
『結局、フランスには行かなかったんだけど、銀座レカンに入って働くことになったんです。』
そうして、フランスのお菓子に触れることとなった横田シェフがまず感じたこととは・・・
『旨みの引き出し方って言うか。 当時のフランス菓子は、アンビバージュの酒の量も多くって、でもその分甘さもあるから調和もとれてすごく味わいになるんですよ。日本は甘さ控えめのものあっさりとしたものを求めたりするじゃん。だけどそうじゃないって言うのを実際、レカンでジャンミエさんのお菓子を作ることで感じたんです。』

もともと、ホテルで本場のフランス料理にも触れていた横田シェフ。菓子もそれに負けないインパクトのあるものでないといけないことも理解していて、その後ヌーベルキュイジーヌの時代となってお菓子も変化してきて・・・その時代の流れと共に、自身の感覚も変化していったそうです。
『今のお菓子の流れができる根本を知っているっていうのは強みだよね。もう変化したものだけを見ているだけでなくって。』
その頃の横田シェフは、まだまだフランス菓子を崩すのは邪道だと思っていたんですって。
『やっぱりフランス菓子は憧れでしたから。出来上がっている完成形をそのまま受け継ぐのが大切だと思っていたから。』
そんな時、新宿に出来たパークハイアットでのシェフへ就任。
この頃から横田シェフのお菓子が少しづつ変わってきます。
その続きは・・・次回に。
>>>次回更新は6月29日(金)です。お楽しみに!